ここでは、天皇が、天皇主権・統治大権・輔弼と天皇の能動的意志決定の関係をどう捉えるかを中心に、天皇行動を律する具体的な原理をどのように考えていたのかを考察する。 一 天皇機関説 天皇機関説は、「明治末から憲法学者の間に公認されていた学説」(『昭和史の天皇』17、読売新聞社、昭和56年、7頁)であった。美濃部達吉は、明治45年刊行の『憲法講話』(有斐閣)で、主権の主体は法人としての国家にあり,天皇はその最高機関であるとする天皇機関説を提唱していた。 天皇には、美濃部亮吉の天皇機関説が改めて天皇主権と統治大権の関係と輔弼の意義を科学者天皇に指し示してくれた。美濃部は、統治権は国家に属し、天皇はその最高機関たる主権者としてその国家の最高意思決定権を行使し、その天皇大権の行使には国務大臣の輔弼が不可欠であるとして、天皇主権・統治大権・輔弼の関係を解き明かしてくれた。これは科学者の天皇には納得的に理解できた。 やがて、これは天皇主権のみを説く国体主義者からは激しく批判された。昭和10年2月、貴族院で天皇機関説が非難されると、天皇は、「これは困った問題になるよ。ルネッサンス時代の論争(新教と旧教の論争)と同じようなことになるぞ」(『鈴木貫太郎自伝』時事通信社、昭和43年、285頁)と示唆した。天皇は岡田首相(昭和9年7月8日−11年3月9日)に、「天皇は国家の最高機関である。機関説でいいではないか」(岡田啓介述『岡田啓介回顧録』毎日新聞社、昭和25年、114頁)と表明した。 天皇は、軍部が天皇が絶対主権をもつとする思想に対して、天皇機関説は科学であるとする観点からこれを批判する。つまり、10年4月、天皇は本庄侍従武官長に、学者的良心から、「若し思想信念を以て科学を抑圧し去らんとするときは、世界の進歩は遅るべし。進化論の如きも覆へさざるを得ざるが如きことなるべし。さりとて思想信条は固より必要なり。結局思想と科学は平行して進めしむべきものと想ふ」(『本庄日記』原書房、昭和42年、208頁[黒田勝弘・畑好秀編『天皇語録』講談社、昭和61年、53頁])と語った。天皇は本庄に、生物学者らしく、「国家を人体に譬へ、天皇は脳髄であり、機関と云ふ代りに器官と言う文字を用ふれば、我が国体との関係は少しも差支ない」(『昭和天皇独白録』104頁)と、美濃部機関説を支持した。 10年5月3日には、天皇は鈴木貫太郎侍従長に、「美濃部のことをかれこれ言ふけれども、美濃部は決して不忠な者ではないと自分は思ふ。今日、美濃部ほどの人が一体何人日本にをるか」(『西園寺公と政局』第四巻、岩波書店、1951年、238頁)と、美濃部を賞賛した。 ただし、これ自体は一つの見方を提示しただけであり、天皇の現実の行動原理とはならなかった。それに対して、次の二つは、天皇が経験上から習得した原理として天皇行動を現実に制約することとなった。 二 上奏時の行動原理 一つは、主として作戦上奏(昭和16年ー19年の主要作戦上奏は145回)と戦況上奏に際しての天皇の行動原理である。これは、前述の通り、 天皇が張作霖爆殺事件で田中義一首相を上奏時に問責して辞任に追い込み、それが側近奸賊の批判を起こしたことへの反省として、今後は君側奸賊批判を誘発するような強い行動を自己規制したということである。これは、綺麗事の自己規制ではなく、軍内部の下剋上的機運の醸成で、実際に天皇が自ら身の危険を感じ始めると、深刻なものともなった。陸軍将校がこれを口実にクーデターを起こし、「君側」が暗殺され、自らも幽閉される危険がでてきたからである。二・二六事件の時に天皇が重臣暗殺に関して、真綿で自らの首を絞められる思いをするとしたのは、その切実さを物語る。 @ 直接質疑 天皇は「ふだんはずっと背広」を着用し、首相らには背広で上奏に応対したが、「陸軍大臣が拝謁のときは陸軍軍装、海軍のときは海軍の軍服を召」した。そして、「軍部大臣や総長の拝謁、上奏には武官長なり武官が侍立」し、「総理や大臣のときは侍従長、侍従が侍立」した。「正式な拝謁、奏上がすみ」、以後も天皇が質問したい場合、天皇は「イス」と発言した。これを機に武官長・侍従長ら侍立者は原則として引き下がり、天皇、大臣だけになる。そして「陛下、大臣共にイスに座られていろんな細かいことだとか、質問なさったりされる」ことになった(海軍侍従武官山澄貞次郎談[『昭和史の天皇』25、第一次ノモンハン事件、読売新聞社、昭和56年、334頁])。厳しい質疑が展開することが少なくなかった。 天皇大権の干犯批判 天皇は、軍部が天皇大権を巧みに利用して独断専行することに対しては、天皇のみが大権者であることをもって陸軍を牽制した。 例えば、昭和14年正月、参謀次長中島鉄蔵が木戸内大臣に、防共協定をソビエトのみを対象とせよという天皇意見に従えない「言い訳」にきた際、木戸は、@「元来陸軍はけしからん。一体大島大使のとった態度は全くけしからん。陛下の外交大権を干犯している、といってもよい」、A「中央ではどうかといへば、中佐大佐のところでいろいろ決めて、それを大臣に押付け、参謀総長に押付け、しかも陛下に強要し奉る。なんたる態度だ、まことに不信行為である。また忠誠において欠くるところはないか。よく考へたらいいじゃないか」と申し入れた。後日、中島は木戸を訪ね、「ドイツの大島大使に対しても、外交の大権は陛下にあり、決定権は日本にあるのだから、ただドイツの言ふがままに、自分の立場を忘れて、同意見だから・・といって従っていちゃいかん、とよく注意しておいた。陸軍は決して陛下の外交大権を干犯するやうなつもろは無論ない」(原田熊雄述『西園寺公と政局』第七巻、280−1頁)としていた。 14年4月1日、有田外相は原田に、「先日総理が拝謁した時、陛下からまず第一に<もし例の防共強化の問題について、太島、白鳥両大使が中央の訓令を奉じない場合はどうするか>、また第二に<これ以上さらに協定の内容を変えるようなことはないか>という御下問があった。そこで、平沼総理は、「もし両大使が中央の訓令を奉じない場合には、召喚または然るべき処置をいたします。またこれ以上更に内容を変えるようなことがございましたならば、中央から出先に言ってやった強化の問題は、最後的なものでありまするから、それで駄目ならば交渉を打ち切るも已むを得ない」とし、「有効なる武力援助はできない、という趣旨の下に細目協定を決するつもり」とした。天皇は「有効なる武力援助とは何か」と質問すると、総理は「武力にしても戦闘行為はできませんが、軍艦を出して独伊の便宜を図る、すなわち牽制する意味において示威運動をするという如きことは、しなければならない」と答えた。天皇は、「初めの第一点、第二点について内奏の要旨を書類にしたためて、自分の所に届けろ」と命じた。そこで、総理は外務大臣に要旨を作成させ、五相に署名させて、14年3月28日付で天皇に届け出た。ただし、五相は、この事実を「陸、海、外三省事務当局者にはそのカケラすら漏らされ」(原田熊雄述『西園寺公と政局』第七巻、325ー6頁)なかった。 しかし、14年4月2日、白鳥大使はチアノ外相に、「独、伊が英、仏と戦争する場合、日本はこの条約の条項に基づき、独、伊側に立ちて戦争に参加することもちろんなり」とした。一方、大島大使もリッペントロップ大使に、「(第三国の攻撃があった場合)参戦の義務にかんしては貴見の通りだ」(有田八郎『馬鹿八と人はいう』[『昭和史の天皇』23、陛下の念書、読売新聞社、昭和56年、105頁])とした。 14年4月10日、天皇は湯浅倉平内大臣に、日独伊三国防共協定の締結過程で、陸軍意向を体して「参戦」条項を容認して交渉しようとした駐独大島浩陸軍中将、駐伊白鳥敏夫大使に対して、「両大使の行為は、天皇の大権を無視したものではないか」とし、「陸軍大臣をとくに呼んで叱言を言おうかと思うが、どうか」と尋ねた。内大臣は「結果において陸軍大臣が海軍大臣その他の閣僚と協議の結果、意見が一致いたしました以上は、すでに事柄はすんでいるのでござりまするから、事新しくかれこれお叱りのあることは、かえって刺戟してよくない」とし、天皇もこの時はこれを了承した(原田熊雄述『西園寺公と政局』第七巻、333−4頁)。 しかし、翌日、板垣征四郎陸相が他の要件で参内・上奏すると、天皇は、内大臣助言を踏まえてあくまで叱言としてではないとしつつも、「出先の両大使がなんら自分と関係なく参戦の意を表したことは、天皇の大権を犯したものではないか。かくのごとき場合に、あたかもこれを支援するかのごとき態度をとることははなはだ面白くない」(原田熊雄述『西園寺公と政局』第七巻、334頁)と陸相に伝えた。陸相は宇佐美興屋武官長に「だれが委曲をすべて申し上げた」かと憤慨し、宇佐美は湯浅内大臣にこれを告げた。湯浅は、それは「叱言」ではなく、「ただ事理を明らかにする」ためだと弁明したが、やはり統帥権を干犯する軍部独走に対して、天皇は叱責し、牽制しようとしたのである。 14年5月9日参謀総長・元帥閑院宮載仁(ことひと)親王が三国協定促進の上奏をしようとた。天皇は宇佐美侍従武官長に、参謀総長の上奏目的は「防共協定の強化」であり、「参戦」には「明確に反対」であるから、このことを伝えておけと命じた。宇佐美は参謀本部に出かけて、この旨を伝えた。にもかかわらず、閑院宮は参戦を上奏したので、天皇は「厳格にこれを拒否」した。木戸内大臣は原田に、 「陛下はいつもかくの如き重大な問題の時、常に『一体宣戦講和の大権は朕の統ぶるところであり、また朕は大元帥として統帥府を統べている。朕の許可なくして、あるいは朕になんらの話なしに、かれこれ問題を強要するが如きはけしからん』というお考えが念頭を去らない。したがって参謀総長宮にもずいぶん厳格におっしゃったらしい」(原田熊雄述『西園寺公と政局』第七巻、360頁)とした。 首相・陸相の能力批判 また、天皇は、側近批判回避のために首相に辞任を迫って内閣を総辞職するようなことは二度としなかったが、戦争回避に必要とあらば、首相・陸相の厳しい批判は控えることはなかった。例えば、14年5月26日、天皇は新武官長畑俊六に、防共協定の諸問題(@陸軍が東郷駐独、堀田駐伊大使を策謀で追い出した事、平沼首相は政権欲の強い「奸譎」である事、五相会議決定が大島大使に誤って伝えられたこと、参謀総長には参戦は「絶対に不同意」とした事、「米が英に加わるときは、経済断交を受け、物動計画、拡充計画、したがって対ソ戦備も不可能なり」)を打ち明け、平沼首相を厳しく批判していた(畑武官長日記[昭和史の天皇』23、陛下の念書、読売新聞社、昭和56年、149頁])。天皇は、それだけ三国防共協定の参戦条項を非常に懸念していたのである。 さらに、14年7月5日、板垣征四郎陸軍大臣が天皇に「八月定期異動内奏」のために参内した際、天皇は板垣に、定期異動のうち、「山下(北シナ軍参謀長・中将)、石原両名の親補職(第二師団長、第十六師団長)推薦」について、@「山下(当時、陸軍省軍事調査部長・少将)は二・二六事件に関係があった。また現在も非常に強硬な意見、態度を持ち、現に天津の英租界を封鎖して、英国と事を起こしているという話である。これを軍司令官に親補することはどうか」、A「石原は『浅原事件』(元日本労友会会長という左翼闘士で、満州国協和会東京事務所の実権者の「浅原健三という人物を中心にした『政権奪取計画』(板垣中将を首班とする政権を樹立し、相前後して、「無産大衆を基盤とし、その指導者たちの血盟によって党」をつくり、「板垣内閣によって、党国政治に帰一」せしめ「ファッショあるいはソビエト方式による党独裁の政権の確立を期す」)」)に関係があるということだが、これをどう処置するか」、B「ナチスが大会を開くについて、ヒトラーから寺内大将に招待があったそうだが、寺内大将のドイツ派遣には政治的使命を与えないのかどうか」(陸軍次官・中将の山脇正隆『秘録・板垣征四郎』、大谷敬二郎『昭和憲兵史』[『昭和史の天皇』25、第一次ノモンハン事件、読売新聞社、昭和56年、181ー4頁])と批判した。 さらに、天皇は、@「防共協定(日独伊三国防共協定)に関しドイツ側がわが要求を拒絶したる以上は、決裂なるべきに、陸軍はなおこれを締結せんとしあるがごときも、元来、本協定には反対なるに、海軍と妥協したるものなり。由来、陸軍はこれに関し、種々策動しあり」、A「陸軍の下剋上、陸軍がすべて物事を主観的にみる伝統あること、ひいては幼年学校の要否、その教育の不備等に関し」て種々話した。その際、天皇は板垣に、「大臣の能力まで」指摘したので、板垣は畑侍従武官長に「はなはだしく恐懼して、その進退を考慮すべきむね、申し」でた。畑は「明日、それとなくご内意をうかがうべきにつき、慎重にすべき旨を申し合わせ」(「畑俊郎日記」[『昭和史の天皇』24、防共強化の挫折、読売新聞社、昭和56年、179ー180頁])た。天皇は三国防共協定の推移に対して陸相への不信感を強め、かつての経験に基づく行動原理で辞めろという露骨な言動こそ控えたが、陸相能力不足の指摘をしたことで、事実上解任の方向に動き出した。 A 書面処理 天皇は上奏時の質疑応答を参考にして、上奏時に提出した書類を裁可するか否かを決定する。 上記陸軍定期異動問題に関して言えば、天皇がなかなか裁可しなかったので、7月11日、陸軍参謀総長閑院宮が参内して詳細に説明した。天皇も率直な意見を披瀝し、@「現地軍の声明が大なる原因」で天津英租界問題で「世論の沸騰」している時期に、「この問題の北シ方面軍の参謀長」山下奉文を「最も重大なる親補職」とすることは「一考を要する」事、A石原は「立派な将校」で「二・二六事件の処理には大いに努力」したが、「浅原事件に関して調査中」だから「しばらく栄転のことは考えてはどうか」とした。天皇は、「総長はどう思うか、考えてくれ」とした。参謀総長は戻って、参謀次長の中島鉄蔵中将と相談して、@「山下はしばらく動かすまい」事、A「石原はしばらく第16師団司令部付」とすることとした。中島次長は侍従武官長の畑俊六大将を通して、天皇内意を伺うと、天皇は、「二人とも有能で将来のある人物である。いま侍従武官長の言って来た案であれば、それでよろしい。石原は東京以外へ出せ。陸軍大臣の辞表提出などのことは自分の考えではない」とした。侍従武官長が陸軍次官に伝えてきたこの内意に基づいて、陸軍省は訂正案を作成して、陸相に提出した。陸相同意を得ると、陸軍次官は参謀次長を通じて参謀総長に伝え、11日午後4時半に総長は参内して天皇に内意に基づく訂正案を上奏した。ここに、はじめて天皇は書類を裁可した(陸軍次官山脇正隆談[『昭和史の天皇』25、第一次ノモンハン事件、読売新聞社、昭和56年、201ー2頁])。 こうして参内し書類を上奏しないで、ただ「参上書」など「陛下にご覧にいれ」、「認可を受ける書類」が「たくさん」あった。侍従次長が「毎日15センチから20センチくらいの高さにまで積まれた」ものを政務室に持ち運んだ。天皇は書類に目を通して納得ゆく種類だけに『可』という印を押し」、納得のいかないものは「別の引き出しに入れ」た。二三日たって下げ渡されないことを知った担当官省などが侍従長を通して「この前の書類はちょっと訂正を要すべきところがありますので、お下げ願います」と申し出て、問題点を再検討し修正して再提出した(海軍侍従武官山澄貞次郎談[『昭和史の天皇』25、第一次ノモンハン事件、読売新聞社、昭和56年、335頁])。 三 御前会議での行動原理 二つは、主として御前会議での行動原理である。 元老西園寺公望の遠謀深慮 これは、政治家・元老らが天皇に、天皇が国務・統帥に深入りして、憲法構造上で問責されぬまでも、汚点を残さぬように、英国立憲君主の統治原則(君臨すれども統治せず)を教え込んだということである。具体的には、昭和12年11月11日に、原田熊雄(西園寺秘書)への湯浅内大臣談話で、天皇が湯浅に「戦況(日中戦争)が今日の如くに立至って、万一先方から講和の申出でもあった時に(備えて)・・・御前会議の用意でも始めたらどうかといふことを、総理に自分から話してみたい」(『西園寺公と政局』第六巻、136−7頁)とした事に対して、西園寺は君権毀損を懸念して、御親裁は「危険千万」だから、「御前会議をお開きになるにしても、いわゆる枢密院に常に御親臨になる意味の御前会議であって、御勅裁とか御親裁とはいふことにならないようにしなければいけない」(『西園寺公と政局』第六巻、140頁)としていたということである。この御前会議での天皇発言抑制に関して、近衛文麿は、「陛下が、御遠慮がちと思はれる程、滅多にご意見を御述べにならぬことは、西園寺(公望)公や牧野(伸顕)伯などが英国流の憲法の運用(これが「君臨すれども統治せず」であろうー筆者)といふことを考へて、陛下はなるべくイニシアチブをお取りになられぬようにと申し上げ」(昭和17年近衛「手記」[藤田尚徳『侍従長の回想』185頁])たからだと批判している。西園寺らは、日本は専制君主制ではなく、立憲君主制だとして、立憲君主たる天皇は御前会議などでの政治的決定・積極的行動は控え、君権毀損を回避するべきだとしたのである。 大正デモクラシー こういう考えは、既に大正デモクラシーの時期から提唱されていた。例えば、大正9年9月2日、原敬首相は三浦観樹に、「元来先帝の御時代とは全く異なりたる今日なれば、統帥権云々を振回すは前途のため危険なり。政府は皇室に累の及ばざる様に全責任の衝に当たるは即ち憲政の趣旨にて、又皇室の御為と思ふ。皇室は政策に直接御関係なく、慈善恩賞の府たる事とならば安泰なりと思ふ」(『原敬日記』第16巻、北泉社、1998年)とした。君主制批判のおそれをもつ民権の発達とともに、政治家は君主制転覆を回避し国体護持、君権護持を考慮せざるをえなくなってきていたのである。 英国体験 確かに、この行動原理は元老らから他律的に教え込まれたものだが、天皇も既に納得していたところでもあった。それは、大正10年の英国訪問で、天皇自らが英国の「君臨すれども統治せず」という原則を見聞して納得していたからである。この点は、英国訪問に随行した東宮武官長奈良武次陸軍中将が、@「理性に富ませらるる殿下は、皇室の祖先が真に神であり、現在の天皇が現人神であるとは信ざられざる如く、国体は国体として現状を維持すべきも、天皇が神として国民と全く遊離し居るは過ぎたることと考へ」、A「皇室は英国の皇室の程度にて、国家国民との関係は、君臨すれども統治せずと云う程度を可とすとの御感想を洩らさるる」(「奈良武次回顧録草案」[『侍従武官長奈良武次日記・回顧録』第四巻、柏書房、2000年、127頁])としたことからも確認される。 御前会議の実態 実際に、天皇は御前会議で発言し、意見を表明しようと思えばできたのだが、自ら積極的に発言することは控えていた。 つまり、軍部が台頭する過程で、御前会議の議題(昭和13年第一回会議「国民政府を相手にせず」声明以降、「東亜新秩序建設」声明、日独伊三国同盟締結、汪精衛政府承認・対中持久戦方略、南方進出・対英米戦決意、16年9月6日会議の日米交渉方針、日米交渉決裂時の開戦、対英米戦決定まで8回の御前会議[以後は、17年12月10日第九回御前会議=「御前に於ける大本営政府連絡会議」<『杉山メモ』下巻、192頁>、17年12月11日第九回御前会議<『杉山メモ』下巻、310頁以下>、18年5月31日第十回御前会議<『杉山メモ』下巻、409頁以下>、18年9月30日の第十一回御前会議<『杉山メモ』下巻、470頁以下>などがある])は軍部に操作され、「(御前会議の)出席者は全部既に閣議又は連絡会議等に於て、意見一致の上、出席しているので、議案に対し反対意見を開陳し得る立場の者は枢密院議長只一人」となって、「全く形式的なもので、天皇には会議の空気を支配する決定権はない」(『昭和天皇独白録』110頁)ものとなっていた。 四 専制君主ー外見的立憲制 この二つの自律的・他律的規制原理が、強大な権限をもつ専制君主たる天皇を外見的には英国立憲君主のごときもの(これがプロシア憲法の君主である)たらしめていたのである。従って、現実の天皇は、この専制と外見的立憲との間で行動していたことになる。これに関して、天皇自らが藤田侍従長に、@「我国には厳として憲法があって、天皇はこの憲法の条規によって行動しなければならない。またこの憲法によって、国務上にちゃんと権限を委ねられ、責任をおわされた国務大臣がある。この憲法上明記してある国務各大臣の責任の範囲内には、天皇はその意思によって勝手に容喙し干渉し、これを掣肘することは許されない」事、Aそれ故「内治にしろ外交にしろ、憲法上の責任者が慎重に審議をつくして、ある方策をたて、これを規定に遵って提出して裁可を請われた場合には、私はそれが意に満ちても、意に満たなくても、よろしいと裁可する以外に執るべき道はない」事、Bしかし、専制君主であるかの如く、「私がその時の心持次第で、ある時は裁可し、ある時は却下したとすれば、その後責任者はいかにベストを尽しても、天皇の心持によって何となるか分からないことになり、責任者として国政につき責任をとることが出来なくな」り、「これは明白に天皇が、憲法を破壊するもの」であり、「専制政治国ならいざ知らず、立憲国の君主として、私にはそんなことはできないこと」(藤田尚徳『侍従長の回想』205−6頁)などと語っていた。 天皇は木下侍従次長にも、上記A、Bについてはほぼ同じような事を語っている。つまり、天皇は木下にも、A「立憲君主国に於て、国務と統帥との各最上位者が完全なる意見の一致をもって上奏し来りたる事柄は、かりに君主自身内心に於ては不賛成の事柄なりとも、君主はこれに裁可を与うるを憲政の常道なりと確信す」る事、A「もし君主に於て自己の意に満つるときは裁可し、満たざるときは拒否するに於ては、これ名に於ては立憲君主なりといえども、実に於ては専制君主というべきな」る事としたのである。このように藤田・木下が同じような天皇発言を伝えていることから、この立憲と専制に関する天皇発言はほぼ事実とみてよかろう。 であるとするならば、天皇が、憲法遵守し、二つの自律的・他律的規制原理に従って行動するとしても、その憲法が欽定憲法であり、天皇の強大な専制的権限と臣下輔弼を定めた外見的立憲であるから、専制の度合い如何、つまり「外見的立憲制下の専制度合」は、まさに天皇の胸三寸にかかっていたことになるのである。立憲か専制かは、天皇判断次第だということである。 五 皇族輔佐の危険性と限界 すなわち、天皇は自らの行動を近親者にも相談せず、上記行動原理のもとで一人で判断し行動していたということである。この点では天皇は孤独な「専制君主」だったということだ。天皇は、統帥権など諸大権の保持者は天皇のみであり、憲法上で兄弟皇族らにも分有させることはできないし、これに関わる事項を兄弟皇族にも相談するべきではないことを理解していたのである。もし天皇が皇族にそうした事項を相談した場合、それを口実に軍部が皇室を分断し、軍部意向に沿って新たな天皇擁立の可能性もあったからである。天皇は歴史でそういう事例を数多く学んでいたことであろう。 皇族の行動原理 皇族は皇統を絶やさぬために必要だったが、実際には皇族も軍首脳となって一定の職務を遂行した。だが、憲法では、天皇大権を定めこそしたが、皇族権利・職務は一切規定していなかった。皇室典範でも、第七章で「皇族」が取り上げられていたが、定義(30条「皇族ト称フルハ太皇太后皇太后皇后皇太子皇太子妃皇太孫皇太孫妃親王親王妃内親王王王妃女王ヲ謂フ」)、天皇の皇族監督(35条「皇族ハ天皇之ヲ監督ス」)、皇族婚姻・海外旅行の勅許義務などを定めているのみで、皇族の職務規定はない。ただ、第五章摂政規定で、天皇が未成年の時、「久しきに亘るの故障」ある時には、「皇太子皇太孫在ラサルカ又ハ未タ成年ニ達セサルトキハ」、「親王及王」、「皇后」、「皇太后」、「太皇太后」、「内親王及女王」の順で摂政になるとあるのみである。通常時での皇族と天皇の関係の規定はないのである。 この結果、皇族を政策決定過程でどう位置づけるかもまた、天皇の胸三寸にかかっていた。 昭和18年1月11日、天皇は宮内事務官ら(池田秀吉、加藤進、角倉志朗、栄木忠常、小倉)に、「戦時下、皇族は何を為すべきか」を下問したことがあった。その際、小倉庫次侍従は、皇族行動は、天皇の輔佐(A「皇族は御中心の聖上を御輔け申上ぐる、森の如くあるべきこと」)、仁徳ある行動(@「皇族殿下の御行動は一に皇室の御徳を発揮すべきことを念とすべきこと」、B「国民は皇族は神様の次と考へている故」に「皇族の御行動は一般臣下には許さるべきことも、皇族たるが故に御慎み願はねばなら」ざること)、外地・南方での皇室「宣伝」(C「外地又は将に南方異民族に対し皇室を認識せしむる場合、皇族殿下に御活動願ふべき分野」があること)などとした(「小倉庫次侍従日記」[『文藝春秋』2007年4月、168頁])。 皇族は「森の如く」天皇を輔佐するとは、あくまで個別事項などで意見具申したりせずに、ただ天皇を輔佐するということであろう。しかし、兄弟皇族、つまり直宮の中には、これを越えて、軍部の働きかけを受けてか、天皇が重要事項で皇族にも相談してほしいとか、自ら重要事項への意見を申し出る者もでてきた。 秩父宮 秩父宮は陸軍将校であり、陸軍の意向を受けて行動することがあった。 14年頃から、天皇は三国同盟に反対しており、大本営陸軍参謀の陸軍中佐秩父宮ともこれをめぐって「喧嘩」をした。つまり、これ以前、秩父宮は陸軍意向を受けて「週三回位」天皇を訪ねては「同盟の締結を勧めた」が、天皇は「私はこの問題に付ては、直接宮には答へぬと云って突放ね」(『昭和天皇独白録』[『文藝春秋』平成2年12月、107頁])たのであった。つまり、14年5月11日、明日防共協定で秩父宮が天皇に会いたいとしてきたので、天皇は廣幡忠隆皇后宮大夫に「如何すべきや」を下問した所、廣幡は「御逢ひ遊ばさるるが宜しく、若し左様な問題に付、御申出あらば、それは殿下より伺ふことにあらずと強く黄瀬られて宜しからん」と答え、湯浅倉平内大臣も賛成した(121頁)。翌12日、天皇は秩父宮に表御座所で対面したが、天皇は小倉大夫に「何も申さざり」し旨を伝え、大夫が職責で秩父宮に「夫以上伺ふことを控へ、内大臣へ仰せられ度旨」を告げたのであった(「小倉庫次侍従日記」[『文藝春秋』2007年4月、121頁])。 秩父宮は天皇に面会できなくなっても、陸軍意向を受けて、三国同盟実現を宮中に働きかけることを断念することはなかった。14年8月16日、秩父宮は木戸幸一に電話して来邸を求め、17日に秩父宮は木戸に会って、「軍事同盟の問題に対する御意見」を開陳した。つまり、秩父宮は、@政府が「軍事同盟締結問題の処理」の打開策なく「荏苒此のまま推移するは最も好ましからず」、Aしかし天皇裁可方針を変更できぬというのは「尤もなる」ことであること、B駐独・伊の日本大使は「不信任にして十分の力」を発揮できないので、電報往復のみでは行き詰まり打開とはならぬので、「平沼首相自ら出馬して、ヒットラー、ムッソリーニと会談して一気に解決」すべしとした。これに対して、木戸は、@現職首相の海外出張は前例がなく、「各方面に与うる影響は相当に重大」であるから、「十分考究するの要」ある事、A天皇裁可案には首相でも「交渉上の余地少なき」こととした。 だが、秩父宮は、「首相自らヒ・ム両氏に直接交渉に当ることとなれば、又自ら局面打開の途も発見し得べく、要は熱と努力なり」とし、不成立でも「差支な」く「国民も諒とすべ」しとした。天皇裁可を無視して、まるで天皇のように積極的である。陸軍から相当強い働きかけがあったにちがいない。「首相渡欧」はまさに「陸軍の要望せる」(『木戸幸一日記』下巻、740−1頁)ことであった。 高松宮 19年7月3日、「本夕、皇后宮より仰せあり。最近、聖上と高松宮と御宜しからず、御二人きりにては可成り激しい御議論を遊ばれては困る」(「小倉庫次侍従日記」[『文藝春秋』2007年4月、178頁])と、天皇と高松宮との関係が緊張している。『高松宮日記』によると、天皇が高松宮に、皇族は「政治上の責任のないもの」として「相談できない」と発言すると、高松宮が「政治」「統帥」で「真に頼りになるものがないということでしょうか」と質している。 また、高松宮は、組織・憲法と天皇の関係について、@「陛下の御性質上、組織が動いているときは邪なことがお嫌ひなれば筋を通すと云ふ潔癖は長所でいらっしゃるが、組織がその本当の作用をしなくなったときは、どうにもならぬ短所となってしまふ。今後の難局には最もその短所が大きく害をなすと心配されるので、さうしたときの御心構へなり御処置につき今からお考へを正し準備をする要あり。即ち精神上の師となる人をおつけすることが必要であるとの話をした」、A「今日の如き、憲法々々と仰っても、その運用が大切なる時に、今の様な有様では、例へ天皇として上御一人でも万世一系の一つのつながりとして、それでは余りに個人的すぎると思う」(178頁)としていた。直近の皇族からも、組織・憲法と天皇の関係について、微妙な関係が批判的に指摘されていた。だが、天皇は、「精神上の師」をつけることの危険性を認識しており、あくまで上記行動原理のもとに「上御一人」で最終的に判断し行動しようとしていた。 三笠宮 20年4月18日には、「三笠宮殿下より、二十日、二十分程御対面の御申出」があると、天皇は小倉侍従に、「何を言はうとするのかな。皇族は責任なしに色々なことを言ふから困る」と指摘した。天皇は憲法条で無責任な皇族発言を取り上げることはできなかったから、三笠宮にも困っていたのである。小倉は「御上みの御立場上、御答にお困りのこともおありと思はれる旨」を申し上げると、天皇は「さうだよ」(「小倉庫次侍従日記」[『文藝春秋』2007年4月、186頁])とした。天皇のみが諸大権保持者なのであり、これに関わる事項については、やはり兄弟にも相談できない「孤高」の存在だったということである。 小 括 ここに、天皇は、@二つの規制原理に制約されつつ、大臣・両総長・侍従長・侍従武官長・内大臣らの上奏を容認したり、御前会議ではほとんど発言できずに、提出された議題をほとんど追認するだけとなったが、A横暴やゆゆしき重大事に直面し、国体護持の危機、国際平和と国民幸福増進に必要と判断した場合には、天皇は時には御前会議においても断固たる決断をする専制的存在ともなり得たのである。それは、ほぼ軍部の横暴に限られていた。軍事大権が一般国政大権などに優越していて、天皇は、たえず軍部横暴に直面し続けていたからである。その軍部の日常的な横暴行為に対しては、天皇は命令・叱責・憂慮・牽制などをした。しかしながら、多くの場合には軍部に押し切られ、天皇決断が頓挫させられることが多かった。いったん天皇が軍部に対して断固たる決断をして奏功した場合でも、天皇には側近・重臣が君側の奸などと非難されぬ配慮が要求されていた。 |
|